聖書
聖書とは、それぞれ異なった性格や強さ、文化的背景を持つ、多くの 書き手が記した神様のみ言葉です。しかし、そこには常に聖霊のはっきりとした導きがありました。その聖霊こそが聖書の真の筆者と言えるでしょう(第 2テモテ3:16、第2ペテロ1:20)。今 日、私達が手にしている聖書は、実に多くの変遷を経た、数千年に及ぶ産物なのです。文字通り、まさに奇跡と呼べる書物であり(神の御言葉なので、もちろん 奇跡なのですが)これら複数の書物は見事に統一されています。聖書の版によって内容に相違がありますが、その違いの大きな要因は、全て訳文の違いによりま す。私たちの教会では、このように言語間に無理があることを分かっています。(マタイ書が、元来アラム語で書かれていたことには現在、疑う余地がないよう です。つまり、今、私達が読んでいるギリシヤ語も訳文なのです。)ですから、このページの言葉を通して、聖霊が語っておられる内容に耳を澄まし、注意深く 聞きましょう。そして、いくつかの訳文を取り上げ、訳者が御言葉を見落としていないか、微妙な違いを見比べてみましょう。
もちろん、これは書物としての聖書を言っているわけです。心に沁み 入ってこそ、初めて神の御言葉となるの です(ヤ コブ1:22)。神学校の教授であり宣教学者でもあるW・O・Carver氏は、よく学生に聖書の厚さ を尋ねていました。生徒が授業に持ち歩いて いる聖書の厚さを答えたのであれば、氏は「いや、そうじゃないんだよ。つまり私が聞きたいのは君たちの心の中にある聖書のことなんだ」と答えたものでし た。そうです。良きクリスチャンは活字としての聖書を大切にしなくてはいけませんが、聖書を礼拝するようなことがあってはならないのです(実際、聖書を礼 拝する宗派もあります)。人間と心を交わす目的で聖書を書かせたのは神様です。ですから、神様を礼拝しましょう。
神(三位一体)
言葉には力があります。数年前のある討論会の席で、一人の熱心な創 価学会員が(エホバの証人の仏教版のようなもの)突然、討論に割り込み「あなたの言う神とは一体誰のことなんだ?神を定義してみよ」と迫りました。くしく も、この男性の質問は大変重要な点を指 摘しています。それは、現代日本のクリスチャン社会で使われている神という言葉は、本来の語である「霊」や「幽霊」の意味により近いからです。
分かりやすい語に置き換えるならば、神は創造主であり(黙示録4: 11)始めからおられた方です(創世紀 1:1)。時間が物質と関連しているのは物理学が教えるところですが、その物質の全てを創造されたのが神なのです。無限である神は有限である人間にご自身 を現わして下さいます。しかし、それでも、なお人間は神様について片鱗さえもうかがい知ることができないでいます。
聖書には神は一人であると書いてある一方で、父、子と聖霊についても多く書かれ ています。きっと、ここが 理解に苦しむところでしょう。聖書のどこにも「三位一体」の語は見当たりません。しかし、三人でありながらお一人である方を表すのにこの語を用いているか らです。これを説明するのに、卵や他の物が例えて使われるようですが、分かりやすいたとえとして、よくリンゴが使われます。つまり、リンゴ一個は一個で す。しかし、そこには皮があり、果肉があり、種があります。この三つはどれも同じ一個のリンゴです。それでいて、それぞれ違う働き、外観、名前があるのと 同字だと考えるとよいでしょう。
人間
人は目的を持って創造されました。神様のご性質が父親であること は、聖書の多くの箇所が示し教えている通 りです。聖書は創造の順位として人を「み使いよりいく分劣る者」と述べています(詩篇8:4~5、へブル書5:6~7)。つまり人は力と強さにおいてやや 劣るのです。しかし、み使いは神と人に仕えるために創造されました(へブル書1:14)。その一方で人間は父なる神と交わるために創造されています。だか らと言って神に仕えなくて良いというわけではなく、むしろ交わりのない奉仕は全く無意味で受け入れられないものです(申命記10:12)。神が人を愛して くださったのですから、神に人を愛させようなどと思わずに、神に仕えましょう。人間とは元来、逆らいやすい性質を持っているものです(エレミヤ17: 9)。それは必ずしも反乱とまでは行かなくとも、自分の道を進みたがるという強情さを持ち合わせているのです。しかし、そうした性質さえも自由意思として 与えられた驚くべき賜物の一つです。自由意思こそが、この造られた世界にあっては最も価値あることです。もし自由意思というものが存在しなかったなら、罪 もなく、そのためにイエスが人間による罪の罰として死なずに済んだことでしょう。神様はロボットやペットを創りたかったのではなく、ご自分を愛してくれる 子どもを望まれたのです。このため真の選択が望まれますが、神を愛さないという選択肢も現実にあるでしょう。幻ではなく、自由意思が創造されたのです。
父
神 がご自身を父と呼んでおられるのは大変意義深いことです。この世のまずい父親のために、今日、世界中で 恐らく多くの人が、いわゆる「父親による傷」を抱えていることでしょう。創造主なる神は、人間の父がなすべきであったこと、あるいはそれ以上の全てをして 下さるお方です。神はまさに愛です。神は聖なるお方です。神は義です。神はよくご存知です。神は変わることがありません。神については、まだ他にも列挙し きれないほど多くあります。神が子どもである私たちに望んでおられるのは、神様を知り、神様が人間を愛して下さっているのと同じように神を愛することなの です(申命記6:5、マタイ23:37)。
イエス・キリスト
面白いことに、「キリスト」が「イエス」の苗字だと多くの人が思っ ています。イエス(へブル語で Yeshua)とは、「ヤハウェが救う」とか「ヤハウェは救い」の意味です(マタイ1:21)。「キリスト」とはギリシャ 語のメシヤを表す英語です。つま り、「油を塗って聖別された者」という意味です。私には、ヨハネの福音書第一章がイエスを理解するのに分かりやすい箇所ですが、それはイエスを「言葉」と して表現してあるからです。「ことば」には、書き手(話し手)の思いと意思が表現されたものです。イエスこそ御父の御心を表すものです。「私の願ったよう にではなく、あなたのみ心のようになさってください」とイエスがゲッセマネで祈りましたが、その祈りが大変重要なのはこうしたことが背景の理由にあるから です(マタイ26:39)。言葉の以前から意思が既にあったように、イエスもまた肉体を持って存在する以前からいたのです。
肉体を持ったイエスが人間でもあり、神であったことほど重要なこと はありません。もしイエスが人間でな かったならば、我々の罪の罰のために、人の代表として十字架にかかることもなかったでしょう。しかし、神でもなかったならば、それは単なる一人の人間の悲 しい死でしかなく、人類の罪のあがないとなることも出来なかったでしょう(イザヤ53:5~6)。
聖霊
聖 書は神の霊について述べています(創世記1:2)。イエスの霊(ピリピ1:19)、そして聖霊(詩篇 51:11、マタイ1:18)ですが、明らかに、そのいずれの霊も一つのお方について述べています。イエスが語ったように、神は霊ですから三位一体からな ぜ切り離さなくてはならないのでしょうか?神様は霊的レベルで私達と直接関わりたいと望んでおられます。聖霊は神様の仲介者なのです。「Oneness」 という団体がありますが、その考えは少々度を超えているようです。神性をあまりに区別しすぎてしまうと私達にとって、あまり益がありません。イエスが御父 に留まるように、私たちも神に留まるなら、聖霊が永遠に私たちに留まり、神も私達の内に留まるのだとイエスは語っています。ここでは、明らかにイエスは、 私達に馴染みのある三次元レベルで語ったのではありません。
救い
救 いはとても重要です。人間には救いが必要ですが、仏教には救いの概念が欠けています。仏陀は人間の意思 こそが苦しみの元であると考えました。これは、ある意味正しい見方ですが、問題は、自己を無にすることこそが解決法だと説いたことにあります。究極の目的 は、いっさいが無であると教えたことです。(何という虚無的哲学でしょう!)一方、聖書は自己意思で神に背を向けるならば、それは罪であり、完全に聖なる 神は、罪で汚れたものは一切受け取らないと教えています。自分の罪を自分で清めようとすることは、まるで外科医が汚水の中で自分に手術を施すようなもので す。まさしく、私たちには救い主が必要なのです!救いが為せるのは、神の支配による救助であり、汚水から引き上げられ、清潔にしていただくことです。(以 下の聖化と義認をお読みください)イエス・キリストを通して以外に救いはあり得ません(ヨハネ3:16~17、ヨハネ14:6、使徒4:12)。
聖化
聖 化とは、聖められることと定義できます。全ての信者は、十字架で流されたキリストの血によって聖別され ていると定義づけてよいでしょう(1コリント6:11、へブル10:10)。ただ、ここで問題なのは、私達が聖別にふさわしい生き方をしていないことで す。ここでは、ヤコブの手紙同様に、ヨハネの第一の手紙から学ぶことができます。ヨハネが手紙を書いた相手は未信者ではなく、信者に宛てたものでした。そ の手紙の中で、「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての罪から私たちをきよめてくださいます」(1 ヨハネ1:9)とヨハネは語りました。悔い改め、告白、そして赦しは、全てのクリスチャンにとって終生続くプロセスです。しかし、「神様は赦してくれる さ」と言ったような態度で、罪を犯す口実に用いることは許されません。パウロはこうした欺瞞についてローマ書の中で戒めています(ローマ6:1~14)。 私たちの生き方も、「私にはやましいことは少しもありません」(1コリント4:4)と言ったパウロのようにありたいものです。そして、つまづいたならすぐ に、悔い改め、告白して、キリストを通して差し出される神からの赦しをいただきましょう。
義認
印刷に通じた人なら、「右端揃え」や「左端揃え」さらに「中央」などに用いる行 端揃え (justification)の言葉を知っていることでしょう。「活字の行を揃える」という場合 は、活字が左右両端がそろった状態をさします。人間生来の自己では、神様の完全な基準(両端が揃うこと)に副うことはできません。イエス・キリストこそ が、神の聖なる基準に副った方で、私たちもイエスのうちにあるなら、神の基準に副い、行揃えが整うのです。人間だけでは、せいぜい「行末の不揃い」にすぎ ず、自分では中央に行揃えできません。古くから定義されている表現では、義認(justification、行末揃え)とは、神によって義と認められるこ とです。行いによってではなく、完全で罪のない人生、キリストの犠牲による基準によって受け入れられるのです。
確信
確 信も、またとても大切なことです。確信がなければ私たちは、すぐに悪魔の「教えの風に吹き回される」 (エペソ4:14)からです。確信を持つことの難しい点は、それが感情的なものであってはならないことにあります。「もし救いが感情に頼るものであれば、 毎週月曜日には迷い込んでしまうだろう!」と言った説教者もいます。「アバ、父よ」と心の中で神に話しかけるなら、たとえ心と感情が反対の方向を向いてい たとしても、聖霊が確信の仲介者となって下さるのです(ローマ8:15)。 キリストが私たちにして下さったこと、イエスの内にあって私たちが 何者であるかの確信を持つことはとても 重要です(1ヨハネ5:13~15)。
霊的賜物
霊 的賜物を巡って多くの議論が交わされています。キリストの花嫁としての教会を補うために与えられた賜物 が論争を呼ぶのは皮肉なことです(1コリント12:7、1ペテロ4:10~11)。賜物は、それぞれの個性に応じて与えられます(ローマ12:6~8)。 賜物は、実はキリストの体のための役目なのです(エペソ4:11~13)。そして、御心のままに信者に与えられているのです(1コリント12: 8~11)。聖書の(1コリント13:8~10)箇所の解釈を巡って、こうした賜物が議論を呼んでいます。10節にある「完全さ」が新約聖書の教会法だと 言われ、こうした賜物は初期の教会で無くなっていました。しかし、教会の歴史を注意深く見ていくと、ペンテコステ以来二千年、こうした賜物の働きがあった ことが分かるでしょう。パウロは、私たちが、そうした賜物を求めるように具体的に述べています(1コリント14:1)。覚えておくべき大切なことは、これ らの賜物は、教会を建て上げるために与えられるのであって、決して独りよがりで自慢するためではないということです(1コリント14:12)。
教会
「教会」といつも訳されている「church」 のギリシヤ語は、とても単純です。「集まり」という意味です。現在、使われているような特別な意味合いを持たせたのは、実はクリスチャンとイエス様ご自身 (マタイ16:18)です。パウロと同じように(エペソ 5:25~27)、ヨハネへのイエスの啓示の中で、聖書では教会をキリストの花嫁と呼んでいます(黙示録21:9~10)。教会はキリストの体全体として あるのです(1コリント12:12~13)。そこでは、世界中のあらゆる人たちが、イエスが人となられた神であり、人間の罪のため十字架で死に、再び生き 返り、イエスを主である告白し、認めるのです。教会は、まさにキリストの体として、キリストの多くの各器官を現わすためのものです。そして、手が体全体に 属しているように、全てが体に属さなくなるわけではないのです(1コリント12:14~27)。教会の表向きに関わらず、教会をキリストの一つと体だと認 識しながら、各器官である教会は健康、成長、そして地域にある他の教会全体の祝福を求めるべきです。
クリスチャンライフ
クリスチャンの生活はイエスが命じられたことを積極的に求めるものであるべきで す(マタイ22: 36~40)。愛に満ちた神様は御言葉を読んで心にたくわえること(詩篇119:11)、どのような状況にあっても、いつも絶えず祈りながら神とともに歩 むこと(1テサロニケ5:16~18)、さらに信者同士が交わることを求めておられます(へブル10:25)。つまり互いが必要なのです!
クリスチャンの儀式
イ エスはバプテスマを授け(マタイ28:18~20)、この地上での最後の晩餐である聖餐式を(1コリン ト11:23~26)命じました。バプテスマも聖餐式も確かに象徴として行うものですが、そこには単なる象徴以上の意味があります。神様は、私たちが形式 に従うことを通して働いてくださいます。それは私たちの心に霊的現実が働くためです。バプテスマを受けるために必要なのは、悔い改め、信仰、そして献身で す(使徒2:38~39)。聖餐式受ける資格は、ですから、バプテスマを受ける信者が謙遜を持つことだと言えるでしょう(1コリント11:27~29)。
御使い
神様と人間に仕えるために創られたのが御使いです(へブル1:14)。御使いが 現れる聖書の物語では全 て、人々は御使いを見て恐れています。御使いは実際、愛らしいキューピッドなどではないのです! 信者のため、あるいは背きの罰に対する、御使い達の様々 な働きが聖書には記録されていますが、それでも、なお、御使いを礼拝することはありえません(黙示録22:8~9)。御使いに感謝することはあっても、決 して焦点を合わせるべきではないのです。
再来
イ エス様がこの地上に再び来られることを、聖書ははっきりと教えています。それは、小さな赤ちゃんとして ではなく、王の中の王、まさに主の中の主として来られるのです(マタイ24:30~31)。イエス様の再来がいつであるかを、正確に知ろうとして、心を騒 がせてはいけません(マタイ24:36、使徒1:7)。ただ、私たちは、その日に喜べるように、積極的に従い生きるのみです(マタイ24:42~46)。 今、現在生きている人も、全て、遅かれ100年以内に、神の審判に直面せざるを得ないのです。